代表者プロフィール
代表者:木脇 祐二(1972年生まれ)
以下に歯車との関わりを記載します。
1994年~1996年:歯車との出会い(大学4年~大学院の計3年間)
岡山大学工学部機械工学科の
機械設計学研究室に配属となり、ここから歯車との関りが始まりました。
機械設計学研究室という名前ではありますが、この研究室が新設された昭和47年に着任された教授が国鉄研で
歯車担当の責任者をされていた方であり、機械要素としての歯車がメインの研究テーマとなる
研究室です。後に仕事で歯車部品の担当となり、しっかり勉強をやり直した時に社内にあった専門書の中
からたまたま勉強に選んだのが ”近畿歯車懇話会編「円筒歯車の設計」” で、この書の序盤の
”円筒歯車の歯形設計” を執筆されたのが研究室の創始者のであることが分かり感慨深いものがありました。
この部分は数式まで全て自分で検証し、私の歯車の理解の基礎となっています。
大学での研究は歯車の疲労試験を行いながら、有限要素法での強度解析や、振動・騒音を解析する ウェーブレット変換という新しい手法について取り組みました。これらを解析するためにプログラミング を学びました。プログラミング言語は "FORTRAN" による数値解析を主体に "Turbo C++" や "N88 BASIC"も 少しかじり、プログラミングとの出会いもここからとなっています。
また、趣味としてモトクロスに没頭し、車体やエンジンそして変速機をバラシて整備していた経験が、 後々、加工部品・工作機械・加工治具の理解に大きく役立つことになったと思っています。
1997年~2001年:トラックメーカーのトランスミッション(MT)の生産技術
大学を卒業し、就職したのがトラックメーカーでした。
大学で歯車を勉強していたこともありトランスミッションなどの駆動設計の部署を希望したのですが、
配属された部署は大型車のトランスミッションの生産技術で歯車部品の加工を担当することとなりました。
仕事の内容は新しい歯車関連部品(丸物部品全般)を量産ラインで加工出来るよう対応することと、試作の
対応をすることでした。試作に関しては試作課が別にあり、量産ラインで試作対応出来ない部品はこちらで
対応しておりましたが、私の仕事は設計が描いた部品が量産しやすい形状であるか検討し形状の変更を提案する
サイマルテニアス・エンジニアリングから始まり、部品の試作を試作課で行うものと量産ラインで対応するもの
に振り分け、量産ラインでの対応は自分で行うという感じでした。
入社直後の会社の状況は革新的な車を発表するなどバブル崩壊の不況から少し立ち直りかけて良い兆しが
ありましたが、2000年頃の不況により状況は悪い方向に向かっていました。その中で大型の商用車は
ギヤ比の変更などの設計変更が多く、また、ちょうどAMT(MTの構造そのままで変速操作とクラッチ操作を自動化
したトランスミッション) の試作を開始したばかりであり、やることは多くあるのですが予算が少ないまま
仕事をしなければならない状況でした。そのため、仕事の内容は新規部品を量産ラインで流すために、生産
ラインの各設備を調査して必要な治具を自分で設計し手配して、不況で夕方5時にはラインの生産が止まっている
ので、夜に新しい治具を設備に取り付け、NCプログラム等を作成し自分で試加工を行うという感じで、
担当者の能力とセンスに一任されるようなやり方でした。今振り返ると自分のやっていた仕事は稚拙な部分も
多く、また大きな組織の仕事のやり方として良いとは思えませんでしたが、個人としては大きく力が付いたのでは
ないかと感じています。現在行っている試作部品や小ロットの部品加工を行うために必要な技術の90%以上は
この時の経験により身に付けたものだと思っています。
2001年4月には、石原都知事による東京都の ”ディーゼル車規制” が施工され会社はさらに大打撃を受け、
3万人の社員のうち1万人削減という位の規模の大リストラが行われる事態になりました。30歳以上社員がリストラ
の対象で、30歳以上の人の半分近くが退職を勧められた状況だったような気がします。当時私は28歳か29歳で
対象ではありませんが、退職を進められた方々が大変悩んでおられるのを見て、逆に退職の割り増しが出て
羨ましく思った部分もありました。この会社を退社する時に改めて確認したのですが、在籍5年間の年収で
一番多かったのが、1~3月は働いていないにも関わらず入社1年目(生産実習として製造ラインで夜勤と残業を
半年行っていた)で、その後の年収はほぼ増減なし。賞与は全9回頂いた全てが前回より下がっている状況